churaroom’s blog

日常感じている事時々意識のお話

悪の使者がいないヒーローの行方

戦隊ものや仮面ライダーなど、

 

ヒーローが登場する物語には必ず悪が登場します。

 

 

もしも、

 

悪が登場しなかったとしたらヒーローはどうなると思いますか?

 

 

昔読んだ漫画の物語の描写が面白くて、

今でもたまに思い出します。

 

 

 

ヒーローが好きな気弱な男の子が、

 

不思議な商品を売っているお店でカッコいいブレスレットを購入し、

 

変身のポーズを取りながらブレスレットのボタンを押すと本当に変身してしまいます。

 

 

少年は最初ビックリしましたが、

 

変身している間は身体能力が上がり、怪力になっていることに気がつきます。

 

「僕もヒーローになれる!」

 

そう確信した少年は悪を退治しに出かけます。

 

 

シーンが変わり、

 

不良がカツアゲをしているのを見かけた少年は、

 

正義のヒーローになって助けに行きます。

 

 

不良達は格好をみてバカ笑い。

 

それにイラついた少年は不良の土手っ腹をパンチ。

 

お腹を殴られた不良は血へどを吐き、内臓破裂の重体に。

 

それをたまたまパトロールに出かけている警官が発見し、

 

 

逮捕しようとしますが、

 

変身した少年に投げ飛ばされ、

少年は逃走。

 

 

1人になった少年は困惑してしまいます。

 

弱いものイジメしている不良を退治しただけなのに何故自分が追いかけられるのかがわかりません。

 

 

正義の味方のつもりが、

悪の使者になってしまったのです。

 

 

 

この物語は子供の頃の私の印象に強く残り、

時折考えさせる物語となりました。

 

 

正義があるところに必ず悪があります。

 

ドラゴンボールには必ず敵役がいます。

アンパンマンにはバイキンマンがいます。

 

 

正義の味方というのは

悪役がいないと成り立たないんです。

 

 

もしかしたら悪役も始めは正義の味方だったのかもしれませんね。

 

 

そのような視点で見てみると、

 

例えば

 

自分にとって理不尽で行動が理解が出来ない人は

 

ただ単に、

 

自分の中の正義に従って行動しているのかもしれません。

 

また、

 

違う視点でみると

 

「こだわり」

 

というのも、

 

自分の中の正しい事が基準になっているとも言えますね。

 

 

他者を理解するには柔軟な視点が必要だと私は思いますので、

 

今回の記事が視点を拡げるキッカケになれれば幸いです。

 

 

 

 

飴と鞭と無視??

「スペインサッカーの指導は飴と無視」

 

友達のfacebookの投稿を眺めながら

 

「面白いなぁ〜」

 

って思いました。

 

 

日本はどちらかというと、

 

「飴と鞭」

 

がベースにあって、

 

 

飴だけを与えてはいけないという刷り込みがあるように感じます。

 

 

飴と鞭をうまく使い分けられるといいのですが、

 

残念ながら鞭だけを与える人も多い気がします。

 

 

ちょっと考えて欲しいのですが、

 

怒られるとどうなると思いますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の感覚では、

 

可能性が狭まって、

限定されるように感じるんですよね。

 

見えない壁に囲まれている感覚です。

 

 

さらに怒られ続けられると、

 

何が良くて、何がダメなのかの判断が自分で出来なくなり、

 

人の目を気にしながら行動してしまうようになります。

 

 

逆に飴を与えるとどうなるか?

 

 

褒められると人は

 

可能性をどんどん拡げていくように感じます。

 

 

もし可能であれば、

 

「○○したらダメ」

 

と、

 

「○○していいよ」

 

を心の中で呟いてみて、

自分の心がどう動くか観察してみてほしいですね。

 

 

では無視はどうでしょう??

 

 

中学時代の話ですが、

 

「モンゴル」という一風変わったアダ名の同級生がいまして、

 

 

他の友達がモンゴルというと

 

嫌がりながらも笑っていて、

弄られる雰囲気になるんですが、

 

何故か私が言うと

 

真顔になって怒るんですね。

 

 

それでも気にせず言っていると、

 

一ヶ月ぐらい無視されました苦笑

 

一ヶ月ですよ?

 

凄くないですか??

 

 

同じサッカー部なのに、

 

名前で呼んでも無視されるのはかなり答えましたね。

 

 

それからと言うもの、

 

反省しアダ名で呼ぶ事は無かったです。

 

 

 

私の感覚ですが、

 

怒る事と褒める事は

 

アクションに対する相手からのリアクションが返ってくるので完結しますが、

 

 

無視は

 

アクションに対する相手からのリアクションが返ってこないので、

 

 

自分の中でアクションとリアクションの繰り返し、

 

つまり自問自答をするようになると思います。

 

 

飴を与えても鞭を与えても、

はたまた無視をしても

どちらでも良いと思うのですが、

 

 

大切な事はその時の感情の流れに流されないで、

 

自分で決断する事と、

 

よーく

 

相手を観察する事です。

 

 

「あの人はいつも同じ事の繰り返し」

 

とイライラを感じている時は観察じゃなくて、

監視ですので注意しましょう!

 

 

また、

 

大人になればなるほど、

褒めることも、褒められる事も少なくなってくるように感じます。

 

きっと、

 

褒めるというのはどこか上から目線の感じがして、抵抗があるんだと私は思います。

 

 

なので、

 

そういう時は感謝を述べると良いですよ。

 

自分がされて嬉しかったことを恥ずかしがらずに直接いってあげると、

 

人はより勢力的に動いてくれますよ。

 

もし今何か相手に不満を感じているようでしたら、

 

観察して、感謝を述べてみてくださいね。

 

怒りの感情を感じた時に私に出来ること

怒りをグッと押し殺した時の胸のムカムカ。

 

今それを感じている。

 

 

その人にとっては呼吸をするぐらい自然にやっている行動でも、

 

いまの私にとっては、

 

「お客さんを取られた!」

 

と感じている。

 

 

心を鎮めようと目を閉じてみても、

ふつふつと上がってくる怒りの感情。

 

「このままでは感情的になって怒りをぶつけてしまうな」

 

そう思って、

 

 

休憩を取って散歩に出かける。

 

散歩をしながら

気持ちが収めて、

 

自分で感情をコントロール出来ると確信してから

 

カフェに入る。

 

 

最初は深呼吸しながら納めようと思いましたが、

 

 

時間が取れるようなら

その場所から離れるのが一番ですね。

 

 

多分感情が沸き起こった時は、

目に見えない怒りの粒子が飛びちっていて、

 

 

その場所にいるだけで呑まれてしまう。

 

自分を変えたければ環境を変えたら良いと聞いた事はありますが、

 

正直

 

それは逃げだと思っていました。

 

が、

 

あながち間違いではないようですね。

 

 

ここ2.3年で、

 

私は感情的な反応が増えたように感じる。

 

 

昔の自分だったら、

 

「心の勉強をしているのに感情的になるなんてダメだ!」

 

と、

 

批判的に捉えると思いますが、

今はそうは思わないですね。

 

 

なんていうか・・

 

より人間らしくなった気がします笑

 

 

気持ちは収まりましたが、

 

言うことは言いますよ笑

 

ではでは、

 

そろそろ仕事に戻ります。

 

 

 

※追記 

 

 職場に戻ってから、

 

スタッフにさらりとこう言いました。

 

「正直にいうね。

さっきのすげームカついた!」

 

だから、今度から・・・ 

 

 

自分が喋っている時、

発言している事は過激でも、

 

感情的にならず、

心が穏やかでした。

 

 

もしも、

 

気持ちを落ち着かせずにいたら、

 煮えたぎる感情を抑えつつも、

 

静かにドスの効いた言葉で、

 

「今度やったらしばくぞ」

 

と、

 

脅していた可能性が高いです笑

 

 

 

もし、

感情的になって伝えていたとしたら、

 

伝えたいことよりも、

 

怒られたことに注意が固定してしまって、

ギクシャクした関係が続いたと思います。

 

 

そして、

 

怒りの感情は伝染し、

怒りの感情をぶつけられたスタッフは

また他の誰かに怒りの感情をぶつけていた可能性が大いにあります。

 

 

昔は自分を抑えて我慢することが、

心をコントロールすることだと思っていました。

 

が、

 

今は我慢しません。

 

我慢しない代わりに、

 

巡りめぐって私のところにきた

負の感情は、

私の所で成仏いたします。

 

 

それが今

 

密かに世界平和のために私が出来ることです。

人と比べたくないけど比べてしまう

人は何故他人と比べてしまうのだろうか?

 

「人に認めてもらいたい」

 

自己肯定感が低い自分が語りかけてくる。

 

 

学生の頃

サッカーでいつも補欠だった自分は、

何故自分が評価されないかがわからなかった。

 

 

毎日休まず練習しているのに何故試合しか来ない人が試合に出るのだろうか?

 

それが不満で仕方がなかった。

 

なんのために自分は練習しているのかがわからない時期もあったけど、

 

ほぼ毎日朝練もしていた。

 

今ならわかることがある。

 

それは、

 

  上手くなって試合に出るために練習していたのではなく、

人に評価されるために練習していたことを。

 

 

「いつも頑張って練習してるね」

 

そう言ってもらいたくて、

練習していた。

 

 

なのに・・・

 

なのに自分は、

 

「いつも頑張ってるね」

 

と言ってくれる人を、

邪険にしていた。

 

 

当時の自分にとって、

 

「頑張ってるね」

 

と声をかけられても、

 

試合に出てなかった自分に対する皮肉にしか受け取れず、

 

「馬鹿にされている」

 

と思っていた。

 

「ありがとう」

 

と受け取れなかったからどんどん人が離れていった。

 

 

その事に気がついたのは

もう30も手前になった頃。

 

 

アメリカで自己探求のワークショップを受講し、

 

日々自己探求をし続けて、

 

少しずつ、

 

少しずつ、

 

自分の事がわかってきて、

 

他者の言動を受け取れるようになったから。

 

 

自分はどうしたいのか?

どうして欲しかったのか?

 

自分が本当は何を求めているかは意外と分からない。

 

 

自分が本当は何を求めているかわからないと、

受け取れることが出来ない。

 

 

自分が本当は何を求めているのかがわかると、

 

実はすでに他者が提供してくれている事に気がつく事が多い。

 

 

忙しい毎日。

 

ふとした時に一度立ち止まって、

 

自分の事を感じてみて欲しいと願います。

 

 

なかなか行動に移せない人へのワンポイントアドバイス

想像は、

他の生き物にはない、

人が持つ唯一の能力だと思います。

 

 

『想像は創造へと繋がります』

 

何か新しい事にチャレンジしたり、

覚えたりする時に有効に使えるツールだと私は思います。

 

 

何か新しい事にチャレンジする時にどうやって想像力を使うのか?

 

疑問に感じている方がいましたら、自分自身にこう問いかけてみてください。

 

「もし、現実的な制限がなかったとしたらあなたは何をしたいですか?」

 

 

この質問は、

思考から想像へと切り替えるスイッチになるはずです。

 

もしあなたが現実的な制限の中で、

 

『私は何をしたいか?』

 

と問いかけたとしたら、

 

それはきっと、

想像ではなく、

思考になるはずです。

 

 

私の言う現実的な制限とは、

 

お金や家族など、

自分が置かれている環境や状況のことをさしています。

 

 

勘違いしないで欲しいことは、

思考は悪者ではありません。

 

現状を維持する為のセキュリティーだと私は感じます。

 

逆に想像は勇者ではありません。

 

想像はあなたを現状の外へと導く鍵となると思いますが、

 

想像だけでは、

ほとんどの人が破滅してしまいます。

 

 

創造するためのポイントは、

 

想像したものを実現する為に意図的に思考を活用することです。

 

・もし、現実的な制限がなかったとしたらあなたは何をしたいですか?

 

の次の質問は、

 

・○○を達成する為に私は何をしたらいいか?

 

です。

 

 

いたってシンプルで、

 

「そんなことわかっているよ!」

 

と思うかもしれませんが、

多くの人が

 

想像から思考ではなく、

 

思考から思考(想像?)へと順番を逆にしているように感じるのです。

 

 

多くの人が現実的な制限というのを抱えていると思いますが、

 

想像力を使ってその制限の外に一度出てみてはいかがでしょうか?

 

想像は自由で、お金もかかりません笑

 

想像だけして、

 

行動してもしなくてもいいと思います。

 

・・・が、

 

想像する事で、

自分を客観的に見る事ができますのでね、

何か新しい自分に気がつくきっかけになると思います。 

 

あなたはあなたの人生の主人公

私達が生きているこの世界は、

1人1人が物語の登場人物です。

 

 

時には主人公だったり、

脇役だったり、

はたまた悪役だったりします。

 

 

物事を複雑にしているのは、

 

1人1人の物語が同時進行で起きていて、

その物語が別々でドラマが起きたり、

絡み合ったりしているからだと思います。

 

 

そんな複雑な物語を解決しようと、

悪戦苦闘する人に共通する事は、

 

他人を変えようとしたり、

自分の都合のいいようにコントロールしようとする事です。

 

 

ちょっと想像してみてください。

 

もしあなたが主人公の物語の中で、

あなたを支配し、思い通りにコントロールしようとしてる人がいたとしたらどう思いますか?

 

嫌じゃないですか?

 

私は嫌です。

 

あなたを支配しようとしてる人は

あなたの物語の登場人物として現れた時、

 

悪者になるか、

若しくは神様のどちらかになると思います。

 

 

身近にいる神とはご両親だと思います。

 

子供の頃って何もわからず、

両親の影響を直に受けますよね?

 

 

親になると、

 

どうしても自分の時間がなくなり、

ついつい自分の思い通りにコントロールしてしまいがちです。

 

 

子供が大人になっても、

親にとっていつだって子供は子供です。

 

 

言い方は良くないですが、

親の支配から逃れようと悪戦苦闘をする時というのは、

 

多分自分の人生を生きるために必要になってくる事でしょう。

 

 

親に敷かれたレールを生きるのか?

または自分でレールを敷くのか?

 

どっちでもいいのですが、

自分で決めて下さいね!

 

 

話が逸れてしまいましたので戻しますね。

 

 

私達は生まれてきてから今日まで

自分の人生の主人公です。

 

 

複雑に絡み合った物語の中を、

上手に生きるコツは

 

他人をコントロールするのではなく、

 

常に自分を変えて成長していく事だと私は思います。

 

 

時には他人を非難したり、

批判することもありますが、

 

どこかの時点で、

 

「私に何が出来るのか?」

 

「何が出来たのか?」

 

 

を、考えてみてはいかがでしょうか?

 

 

他人を非難や批判しているうちは、

自分の人生を生きていません。

他人の人生を生きています。

 

「あなたは他人を非難や批判をして生きていきたいですか?」

 

 

もし答えがノーならば、

 

「自分はどんな人生を生きたいのか?」

 

を問いかけてみて、

 

自分に出来る事から始めてみて下さいね。

 

 

何気ない一言

何気ない一言で、

人を傷つけることがあります。

 

何気ない一言で、

「カーッ」と頭に血がのぼることもあります。

 

何気ない一言で、

救われることもあります。

 

 

何気ない一言は

 

本人が意識せずにふと出る言葉で、

ふと「これいっちゃまずいな」と気づき、

 

無意識だったもの意識化し、

抑制することもできます。

 

 

私は10代の頃は何気ない一言で沢山の人を傷つけてきました。

 

その為、

 

「そっけない」

 

「冷たい」

 

など良く言われていて、

傷つく前に

 

「なんでわかってくれないんだろう?」

 

っとイライラしていました。

 

 

私自身は傷つけるつもりはなかったですし、

思ったことを口に出しただけでした。

 

 

今思い返せば、

他者への配慮が足りなかったんだなぁ〜っと思います。

 

 

ただ見方を変えれば、

言われた本人は指摘されたくない事を指摘され、

感情が動揺したとも取れますね。

 

 

私は何気ない一言は、

 

受け取った本人に何か気づきを与える為に、

他者が代弁しているように感じます。

 

 

ハイヤーセルフとか、

スピリチュアルメッセージとか

そういった類のものではないかと思います。

 

 

そのメッセージに、

 

良い、悪いと価値判断しているのは人間で、

言葉としてただ発せられているだけだと思いますよ。

 

 

また、

 

何気ない一言を発して返ってくる反応に苦しんでいる方がいると思いますが、

 

それも何か気づきを与える為のメッセージのように感じます。

 

 

何気ない一言が

 

発する側にも、

受け取る側にも、

 

何か意味があるという視点でみると面白いと思いませんか?

 

 

何気ない一言で悩んだり、苦しんでいる人が、この記事を読んで少しでも楽になってくれたら良いなぁ〜と思います。